寿司職人ブログ

人生真ん中あたり

成人式があった

 昨日は僕が住んでいる地域の成人式があったようだ。お振り袖を着てる若い女の子がたくさんいた。中にはまだ少女のような娘もいれば、西麻布あたりでタバコを吸っているのが似合いそうな娘もいた。僕は成人式には行ったものの陰キャラだったのでその後の飲み会には顔を出さなかった。中学を出て自分だけ地元を出奔したので、同級生たちとの絆ーしがらみともいうーはすり切れた糸のようにいつ切れてもおかしくない脆さなのだった。

 僕は地元のしがらみが嫌で地元を離れたわけではないし、ヤンキーに虐められていたわけでもない。学校のお勉強ができる陰キャだった。そして特に地元の高カースト層の人間たちに恨みを抱いていなかった。尤も、ヤンキー達がどうなっていようと自分には全く関係がないと思っていたので、無関心も恨みの現れ方の一つなのかもしれないと言えないこともないかもしれない。

 さて、ぼくのフォローしているツイッターのタイムラインでは成人式に絡めて自分の地元ーいわゆる「地方」ーの高カースト層たち、言い換えるとマイルド含めたヤンキー達への言及ツイートが目立つ。「早熟でルックスの良い女の子が高カーストにいたヤンキーに見初められて高卒でデキ婚」みたいな内容のものである。幾ばくかの憐れみというか、上から目線を感じるツイートである。勉強ができたおとなしい陰キャ諸君は田舎を出て都会の大学を出て良い会社に入り、地元のマイルドヤンキーを見下すのである。これぞルサンチマン、これぞ人間という印象を抱いた。

 ツイッターを通した社会批評のようなものに目を通していると、往々にして発言者のルサンチマンや個人的感情が発露していることに気づく。それらをインターネットスラングツイッター構文を用いて同じようなインターネットユーザの目に触れられるように加工した結果が世の中の多くの人を見下した鼻につくツイートの数々なのである。世界は分断しているし、インターネットとりわけSNSにより溝の陰影が濃く深くなっていく。

 ぼくは成人式の人たちを見て自分が若い頃のルサンチマンを晴らすような発言をするより、せめて新成人におめでとう、大変だけど頑張ろうの一言を嫌味なく言えるオッサンでありたいと思う。