寿司職人ブログ

人生真ん中あたり

【雑記】都会vs地方〜Twitterの論争にありがちな話題からぼくが思うこと〜

山間の人口1万人に満たない郡部の山村に生を受け流浪の果てに寿司職人となったぼくからすると、「大学に入ると余計な知恵がついて余計に苦しむことになるんだな」という感想を抱きました。

このYahoo!ニュースの記事「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由(現代ビジネス) - Yahoo!ニュースを読んで感じたことです。思ったことをその都度ツッコミます。

「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由
4/25(水) 11:00
現代ビジネス
名門校出身者たちを目の当たりにして

「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由
写真:現代ビジネス
 教育と格差の問題といえば、しばしば話題にのぼるのが東大生の親の年収である。2014年の調査によれば、東大生の育った家庭の半数強が、年収950万円以上の比較的裕福な家庭だという。

 ここで問題視されているのは、階級の固定化である。つまり、裕福な家庭は多額の教育費を支払うことができるので、子供は高学歴化する傾向にある。学歴と収入は比例することが多い。結果的に、金持ちの家系はいつまでも金持ちだし、逆に貧乏人はいつまでも貧乏から抜け出せない――という問題だ。

所得格差は知能格差であり、その要因の半分は遺伝子の格差の問題でもある。それも含めて論じないとまさに片手落ちではないだろうか。

 だが、こうした問題提起に出くわすたび、いつも「ある視点」が欠けていると私は感じる。それは都市と地方の格差、地域格差である。

 田舎者は、田舎に住んでいるというだけで、想像以上のハンディを背負わされている。あらかじめ、どんな地域で育ったどんな人物がこの記事を書いているのか、簡単に紹介しておこう。

田舎者は田舎に住んでいるだけでなく、都会に出てからもハンディを背負っている。むしろ都会に出てきたことで田舎者格差を感じるのである。

 私は高校時代までを、北海道の釧路市で過ごした。初代の「ゆとり世代」であるらしい1987年生まれの男性で、これは2000年に中学に入学し、2006年に高校を卒業する学年である。中卒の母親と小学校中退の父親という両親のもとに生まれ、一人息子を東京の大学に通わせるだけの経済的な余裕はある家庭に育った。

小学校って中退できるのか?というのが真っ先に抱いた疑問です。

高校生まで釧路市民だったのですね。私の生まれ育ったのは●●郡であり市民(社会学的な意味ではない)に憧れを抱いていました。父は学士ではなく母は中卒で、経済的には恵まれていなかったので、きょうだいは地元の大学には進学せず、奨学金と授業料免除を受け公立小中高から国立大学へと進学し、現在は地元で働いており、子宝に恵まれて忙しくも充実した日々を過ごしています。

 高校卒業後は浪人して東京大学文科三類に進み、3年次で文学部へ進学、その後5年間の大学院生活を経て、現在はニューヨーク州立大学の博士課程に籍をおいている。

 未だに親の脛をかじっているのでしょうか。と思ったらフルブライト奨学生でしたか。すげえ。「親は低学歴の田舎モンだけど、経済的に恵まれた家庭で努力もできたんですね。。!よかったですね。。!親に感謝ですね!」と言ってしまいそうです。

釧路市は、見渡す限り畑が広がり家屋が点々と建っている、というほどの「ド田舎」ではないものの、若者が集まる場所といえば「ジャスコ」しか選択肢がなく、もっともメジャーな路線のバスは30分に1本しか来ず、ユニクロやスタバがオープンすると大行列ができるような、ある種の典型的な田舎町だ。私が住んでいた当時は、ちょうど人口が20万人を割ったころであり、現在も小中高のクラス数とともに、人口は減りつづけている。

ぼくはいま住んでいるのは札幌だけど、仕事でしばしば古宇郡とか虻田郡に行くと、民家が点在してイオンすらない地元の村を思い出します。そういえば小樽のイオンがあるあの辺のモールは経営破綻したそうですがどうなったんだろう。

 そのような田舎町で育った私は、東大に入学して、都内の名門校出身者をはじめとする「サラブレッド」たちに出会い、いたく驚かされることになった。文化と教育の地域格差が、想像以上に大きかったからである。

問題は「貧富の差」ではない

私が主張したいのは、「貧富の差よりも地域格差のほうが深刻だ」ということではない。そうではなく、地方には、都市生活者には想像できないであろう、別の大きな障害があるということである。

わかる、わかるよ。都会生まれ都会育ちのエリート諸氏とは何かが違うんですよ。決定的に。ぼくはエリート諸氏のために寿司を握ってきたけど、決して分かり合えないのかなあと思っている。

 田舎では貧富にかかわらず、人びとは教育や文化に触れることはできない。たとえば、書店には本も揃っていないし、大学や美術館も近くにない。田舎者は「金がないから諦める」のではなく、教育や文化に金を使うという発想そのものが不在なのだ。見たことがないから知らないのである。もちろん、文化と教育に無縁の田舎で幸福に暮らすのはいい。問題なのは、大学レベルの教育を受け、文化的にも豊かな人生を送れたかもしれない田舎の子供たちの多くが、その選択肢さえ与えられないまま生涯を過ごすことを強いられている、ということだ。

 東京の大学を出た人が常日頃から文化に触れているかというとそんなことはなく、ごく上澄みだろうと思う。地方にも美術館はある。岩内郡共和町という雷電すいかという大変美味しいスイカの産地は大変な田舎ではあるものの、西村計雄記念美術館というミュージアムがあることはある。ぼくは言ったことはないが。

「文化的」とは、おそらく、いまあなたが思い浮かべている次元の話ではない。たとえば私が想定しているのは、わからないことがあればひとまず「ググる」という知恵があり、余暇の過ごし方として読書や映画鑑賞などの選択肢を持ち、中卒や高卒よりも大卒という学歴を普通だと感じる、そういったレベルの話である。

 田舎モンはバカだから都会の人より知的レベルも学歴も低いと言いたいのでしょうかね。なぜググらないのか、それには理由があるはずだ。それを探らずして都会的価値観の元に一刀両断する言論を、ぼくは野蛮だとおもう。(言いすぎた。「知的という言葉からは距離があるように感じる」といい直します)

 

この記事は、以下のツイートの拡散をきっかけに執筆依頼を受けて執筆している。

家庭が貧しいと教育が受けられず貧しさが再生産されるという話、もちろん大問題だけど、同時に知ってもらいたいのは、教養のない田舎の家庭に生まれると、たとえ裕福でも教育には到達できないってこと。教育の重要性じたいが不可視だから。文化資本の格差は「気付くことさえできない」という点で深刻。

― 阿部幸大/Kodai Abe (@korpendine)

えっ公教育は?と思わざるを得ない。そして教養のない田舎の家庭、の「田舎の」は不要だと思う。東京では「大学に行く」という選択こそ逆方向だが、地方と同様「みんな〜するから〜する」という行動原理が支配的である。自分の知的好奇心に基づき己の意思で進路を決定する連中なんて上澄みの上澄み、特殊な存在だと私は思う。

2018年3月15日 私は社会学者ではない。田舎から運良く東京の国立大学に進学できたので、上記のような格差と落差を、身をもって体感した一個人にすぎない。

 だがこのような格差の紹介は、日本ではまだまだ驚きをもって受けとめられている――つまり十分に認識されていないようなので、私のような経験者がひとつの実例を提出してもよいだろうと考えた次第である。

 そしてこの「十分に認識されていない」という事実が、逆説的にこの格差の大きさを物語っているように思われる。

ツイッターは都会もんの暇つぶしですよ。あの言説を日本社会の言説だと思わない方がいい。

大学生を見たことがなかった。

私の育った釧路市のような田舎に住む子供の多くは、おかしな話に聞こえるかもしれないが、まず「大学」というものを教育機関として認識することからして難しい。言い換えれば、大学を「高校の次に進む学校」として捉える機会がないのだ。高校生の頃の私が「大学」と聞いたとき思い浮かべることができたのは、「白衣を着たハカセが実験室で顕微鏡をのぞいたり、謎の液体が入ったフラスコを振ったりしている場所」という貧しいイメージのみであった。仮に当時の私が「大学には18歳の若者が通ってるんだよ」と教わっても、驚くどころか、意味がよくわからなかっただろう。

 そういえばぼくの周りにもいなかったな。前の家の2つ上の兄ちゃんが名古屋大学に進学してたけど、それまで近所には大学生なんて住んでなかった。ただ、駅弁大学などとバカにされる地方国立大学の存在も、かような言説を目にすると「その県に大学生が存在する」という点において価値があると考えざるを得ない。

たとえば釧路市民にとっての「都会」といえば札幌だが、釧路と札幌は300km、つまり東京―名古屋間と同じくらい離れている。市内には2つの大学があるが、いずれも単科大学である(当時は知らなかったが)。

 日本の各都道府県にはそれぞれ総合大学(ユニバーシティ)が設置されているので、最寄りの総合大学からこれほど地理的に離れている地区というのは、全国を見渡しても、離島と北海道の端っこくらいのものであろう。

釧路には釧路公立大という大学があるけど経済学部しかないのか。。。道東に視野を広げればラジラジ呟いてる先生で有名な帯広畜産大学北見工業大学があるが、総合大学ではないなあ。

都市部にも「大学と無縁の環境で育った」という人はいる。だが、この点において田舎と都会で根本的に異なると思われるのは、「文化」や「大学」といった存在が視界に入るかどうか、という差である。釧路にも大学は存在すると書いたが、しかし子供たちにとってそこは病院などと区別されない「建物」にすぎず、「大学生」という存在にじかに出会ったことは、すくなくとも私は一度もなかったし、また私の場合は親族にも大学卒業者が皆無だったため、高校卒業後の選択肢として「大学進学」をイメージすることは、きわめて困難であった。それに対して都市部では、たとえば電車に乗れば「~大学前」といった駅名を耳にすることになるし、そこで乗ってくる大量の若者が「大学生」であることも、なんとなく理解するチャンスはかなり大きくなるだろう。上京して、じっさい私は「世の中にはこんなに大学があったのか」と驚いた。さらに言えば、私が東大に入学し、なかば憤慨したのは、東大と同じ駒場東大前駅を最寄り駅とする中高一貫校が存在し、その東大進学率が抜群に高いということだった。なんという特権階級だろう!  しかも彼らには、自らがその地理的アドバンテージを享受しているという自覚はない。まさに文化的な貴族である。

 ぼくが子どもの頃はインテリの代表格といえばお医者さんだった。医者になるにはどうしたらいいんだと思って調べたことがあったけど、どうやら大学の医学部というところに行かなければいけないらしいが、頭が良くないと行けないらしい。そこでぼくは諦めてしまったのだった。

ロールモデルが不在だと夢を諦めてしまいやすくなるから、ロールモデルがたくさんいる環境を用意するのが「できる親」ということかしら。

遠すぎて想像がつかない

地域格差の大きさを考えるために、以下のような比較をしてみたい。

たとえば東京に隣接したある県の家庭で、ひとりも大学卒の親族がおらず、しかし、抜群に成績が優秀な子供がいたとする。この子と、たとえば釧路市に住む、やはりひとりも大学卒の親族を持たない、同程度に優秀な子供とを比べてみよう。

それぞれの家庭の親が、「この子を大学に入れようかしら」という発想に至る可能性を想像してみてもらいたい。前者の場合、仮に経済的な問題があっても、すくなくとも「将来、うちの子はもしかしたら東京の学校に通うことになるのかもしれない」という想像までは働くだろう。なにしろ東京まで電車で1時間程度なのだし、それに都内でなくとも、関東には大学がいくつもある。だが、後者の場合、親はせいぜい子供の優秀さをなんとなく喜ぶ程度で、大学進学などという発想はいちども脳裏をよぎることがなく、高校の終盤に先生から打診されてはじめてその可能性を知り、やっとのことで「『大学』って……どこにあるんですか? と反応するといったありさまだ。大袈裟に聞こえるかもしれないが、これは私の実例である。釧路のように地理的条件が過酷な田舎では「街まで買い物に行く」ことも容易ではないので、たとえば「本やCDを買う」という日常的な行為ひとつとっても、地元の小さな店舗で済ませる以外の選択肢がない。つまり、まともなウィンドウ・ショッピングさえできないのだ。したがって、私が関東に引越して自宅浪人しはじめたとき、まっさきに行ったのは、大きな書店の参考書売り場に通いつめることであった。見たこともない量の参考書が並んでいる東京の書店で、はじめて私は「釧路では参考書を売っていなかったのだ」ということを知り、悔しがったものである。

北海道は送料有料になるから差別されてると思う。でも農作物が美味しいからいいじゃん。都会より広い家に住めるし。冬は辛すぎるけど。どうでもいいけど、子どもの頃でもテレビ観てても大学って何ィ、という気持ちになるような気はするけどこの人はテレビ観なかったのかな。

 田舎者(私)の無知と貧弱な想像力の例をいくつか挙げたが、まさに問題は、この「想像力が奪われている」ということにある。こうした田舎では、とにかく文化と教育への距離が絶望的に遠いがゆえに、それらを想像することじたいから疎外されているのだ。あまりに遠すぎて想像すらできないこと、これが田舎者の本質的な困難なのである。

それがいいんですよ、そして自分の環境は変わらないのにネットやメディアで「都会の洗練された楽しそうなようす」が流れてくると歯噛みしちゃうよね。知らぬが仏というやつです。

 

サバイバーズ・ギルト

田舎の小中高生にとっては、「将来のために勉強する」という発想もまた、かぎりなく不可能に近い。これは「何のために役に立たない勉強なんてするの? といった不満とは異なる話である。

たとえば当時の釧路市では、高校入試の倍率はどの学校でもほぼ1.0倍であり、進学先は中学校の成績で自動的に割り振られた。いわば、いつのまにか「生涯の偏差値」が――その意味さえわからぬまま――決定されていたわけだ。

田舎から抜け出すには大学入試がおそらく最大のチャンスだが、しかし、その可否は中学時代にすでに決まっている。

なぜなら、「都会には『大学』なる組織が存在し、自分も努力次第でそこへ入学するチャンスがある」という事実を教わることができるのは、中学で教師の言われるままに学区トップの高校に進学した者だけだからだ。

高校で初めて「大学進学」という選択肢の存在を知った私の場合は、この事実を驚愕と、いくぶんかの後ろめたさをもって受け止めた。なぜなら自分の学力が高くて大学に行けるのだとしても、それは「努力の成果ではなく、偶然の結果にすぎない」としか感じられなかったからである。 田舎から都市圏の大学に進学するということは、たまたま容姿に恵まれて街角でスカウトされるのにも似た、きわめて確率的な事象である。

それをプライドに転化することもできるだろうが、いわゆる「底辺」と形容される中学に通っていた私には、高い学力を持ちながらも、その価値を知らず道を誤ってしまった親しい友人を多く持っていたため、むしろ自らが手にした幸運の偶然性に寒気がしたものであった。

この「後ろめたさ」は、一種の「サバイバーズ・ギルト」のような感覚だと言える。じっさい、そうした友人たちは中学のある時点で未成年による犯罪のニュース報道とともに学校から姿を消し、のちに鑑別所か少年院で撮影されたらしい変色した写真が卒業アルバムに載っているのを目にするまで、生死さえわからない状態であった。

その中には私よりも成績が良い者もいたのだが、彼らは大学どころか中学校にも通えなかったわけだ。私が同様の運命を辿らずに済んだのは、たんに運が良かったから――たとえば犯罪行為が露見した日に一緒に遊んでいなかったから――にすぎない。私は、彼らが学力の価値を少しでも知っていたらどうだったろう、と考えないわけにはゆかない。

かように田舎において、学力というポテンシャルの価値は脆弱なのである。

そりゃ産業が都会とは違うからね。

学力でたいていのことが決まる世の中に拳をあげましょう!テロを起こせとは言わないけど。

東京との根本的な違い

 仮にめでたく大学進学という選択肢が与えられ、十分に学力があり、経済的にも恵まれ、いざ大学進学を志したとしても、田舎の子供にはさらなる障壁がいくつも立ちはだかっている。思いつくままに羅列してみよう。

 ○「せめて県内の大学に行ってほしい」と希望する親(北海道はとくにこの傾向が強かった)

 ○「女性は大学・都会になど行くべきでない」という根強い価値観

 ○都会に出ようとする若者への激しい嫉妬と物理的・精神的妨害

 ○受験に対する精神的な負担(多くの人は飛行機に乗ったことも大都市に行ったこともない)

 ○単身で「都会へ引越す」ことへの精神的負担

 ○都会での大学生活について相談できる大人の不在

 ○塾や予備校の不在(都会にどんな機関があるのか知る機会もない)

 ○近所の本屋に受験参考書が揃っていない(取り寄せるべき参考書を知る機会もない)

 ○過去問を閲覧することができない

 ○各種模擬試験の案内がない

 田舎者は、こうした数多の困難によって、教育から隔絶されている。

 こういう話をすると、かならず「いまはインターネットで教育が受けられる」という反応がある。だがこれは、くりかえすが、機会の問題ではなく想像力の問題なのだ。田舎ではそのような発想じたいが不可能なのである。

 田舎者は、教育の重要性はもちろん、インターネットの使い方もろくに知らない人がほとんどである。そのような情報弱者に、みずからの社会的地位の向上のためにインターネット教育を利用することを期待するという発想は、都会人の想像力の貧困を示していると言わざるをえないだろう。

ん?都会人は想像力が貧困?容姿が矛盾してきてない?気持ちがオーバードライブしてきた感じを受ける。

田舎者は精神的にもひ弱なのかと思った。高等教育に興味がないことはそんなに悪いことなのかな。東大法学部を出て最強官庁である財務省事務次官までなった人がやったことはテレ朝記者へのセクハラですよ。田舎のスナックでちぃママを口説くおじさんと何が違うんだい?十勝の農家がどれだけ稼いで溜め込んでるか知らんのだろうか。筆者は漁業の街釧路の生まれだから知らないのも仕方ないね。たまさかお勉強ができて東大→アメリカの大学院まで行っても、あるいは行ったからこそ、学力・教養メリトクラシズムに絡め取られ、アメリカ民主党を応援するいけすかないインテリみたいなことを言い出しているんだろう。地方にはまず稼げる仕事だ!職だ!といいたい。

「幸せかどうか」とは別問題

 「田舎だけの問題じゃない」「うちの田舎のほうがキツかった」「都会の貧困層には都会特有の問題がある」といった数々の異論があると思う。それはもっともだ。しょせん私はひとつの経験しか持たない。とくに都会特有の問題については無知である。 だが、別の事例と問題点を挙げるとき、念頭においてほしいのは、弱者同士でケンカすることなどまったく不毛だということである。たんに私は、「教育の格差といえば貧富の差」という一般論において消去されがちな地域格差という側面にスポットを当てたにすぎない。別の問題を知るひとは、また別の問題として提起すればよい。また、「田舎は田舎で楽しくやってる」というのはまったくそのとおりだが、その事実と、都会と田舎のあいだには「格差」が存在するという問題は位相が異なる。田舎の幸福は格差を容認する理由にはならないのだ。ましてや、「知らないほうが幸せ」という意見は、「家事こそ女の幸福」と主張して女性差別を温存するのにも似た、差別と搾取と格差を是認するロジックと同じである。

解決策とか、ではどうすることで我々は幸せになれるのか?を書かないとただの嫌な人で終わってしまいますよ。家事こそ女の幸福だとは思わないけど、家事をしてる方が幸せだという女性もいるわけで、それは差別と搾取なんですかね。家事という夫と比べ相対的に弱い労働強度で夫の資産をはんぶんこできるなんて夫が搾取されとるのと同意でしょう。

偶然に翻弄される地方の子供たち

地域格差が存在することは理解してもらえたとしよう。ではどうすればいいのか? 

お、具体的解決策でた!ワクワク

教育における地域格差の帰結をあらためて言い換えれば、それは「同じ学力の子供が、田舎に住んでいるという理由だけで、都市に住んでいれば受けられたはずの教育の機会を奪われている」ということである。そして、「知っていたら大学に行っていた」人口は、間違いなく、かなりの数にのぼる。

 先にも述べたように、私自身が偶然によって東京の大学に進んだ。ということはつまり、別の偶然によって田舎に留まることも大いにありえたのである。

 そして私は、もし過去に戻ってみずからの意思によって進路を選択できるのなら、迷うことなく前者を選ぶ。なぜなら、大学進学は選択肢を可視化するためである。「知らなくて損をする」という可能性を小さくするためである。

 私が必要だと思うのは、こうした偶然性に翻弄される田舎の子供たちに、彼らが潜在的に持っている選択肢と権利とを想像させてやることであり、ひいては、東京をはじめとする都市部に住む人びとに、もうすこし田舎の実態を想像してもらうことである。

 本稿がその実現にむけた小さな一歩となることを願っている。
阿部 幸大

解決策になってないですね、地域格差を煽るばかり。都市部の人の想像力の貧困を詰っていたではありませんか。そんな人に期待するんですか?逆に釧路の低学歴の家庭出身者に都会の大学を出て知的で教養溢れる人生を想像しろと言われたらどうするのでしょう。

 

 でもまあ同じ田舎モンとして、阿部さんはアカデミアで、ぼくは寿司職人の世界で強くたくましく生きていこうと思った。